電文

ここ10年、あっという間に携帯が広まり、メールは日常の必須アイテムとなり、さらにはグローバル化され、瞬時に離れた相手に文章を送信できる。
こんな時代になる以前の話、ある番組で紹介されていた話、南極観測の基地に新婚夫婦の夫が、赴任した、まさに究極の単身赴任、ちょっとやそっと帰れない、残された新妻は、不安と寂しさに耐えかね電報を打ったのだとか。仕事だからどうしようもない事は判っているし、なにか問題でもあれば知らせもあるだろうし、待っているよりしかたないんだけど、それでも寂しくて心配で不安で、そんな諸々の胸いっぱいの想いのたけを、たった三文字の電文で、南極の夫に届けた、「あ・な・た」と。
この三文字が、遥かかなた南極の夫の心に必ずや届いたのだろう、あまりに言いたいことが多すぎて、言ってもしかたない事が大半で、だから、この三文字しか言えなかったそんな妻の心。
なんかちょっといい話だし、今や数限りないメールが日々飛び交っているだろうけれど、数より質だった電文の時代を懐かしむ、そんなちょといい話じゃなかろうか。
今だったら、見送った途端、「そっちは今どのあたり?私は今家に着いたとこ」なんてメールのやりとりが始まっちゃうところに違いない、そんな日常に、私達の「情緒」は薄らいでいってるのかも・・・。
これを書いていて今ふと考えたりした。